天気の子・雑感

 今作の分水嶺を大雑把にまとめてしまうと、「モノか物語か」という二つの選択に収斂するのではないかと思う。物語とは単純な意味でいうストーリーのことを指すけども、例えば、制作者が物語を選んだとき、総じてモノの豊かさは放棄しなければならない。もちろん完全なトレードオフの関係にはないが、新海作品にはとりわけこのような構造があるように思われる。

 前作の『君の名は』は、当然物語にウェイトを置いていたわけだが、その主たるギミックが時間によるズレである。その導入によって、男女入れ替わりというコミカルな作劇を損なわない形で、すれ違う主人公とヒロインの緊張関係は保たれていた。映画は、時間という一定の厚みをもつ形態だから、絵画のように同一平面に異なる時制を描くと矛盾したように感じることは起こりえない(その矛盾を解決するには、時間による分節を与えるしかない)。ダ・ヴィンチは、この混乱を回避するために一つの壁面には一つの時間と一つの物語だけにとどめるような構図(いわゆる演劇での「三一致の法則」)を追求した経緯があるが、それに対して、映画はショットを決まった文法に従ってつなげるだけで観客の側で時間を再構成することができる。つまり、時間の隔たりを強く意識させた前作は、間違いなく物語の映画だろう。そうなると、『天気の子』はモノの映画ということになるのか?

 確かに天気の子はモノが主体だった。今世紀のポストヒューマンの諸問題の枠内に引っかかる要素が散見されていたのは明らかである。因果関係は問えないが、前作のプチブル疑惑(主人公とヒロインのどちらも経済的に不自由ない)をなしにして、貧困層の狭い空間に雑然と散らばるキッチュを全面的に露出したから、ようやくビル群の乱立する風景に対する有効性につながった感じはした。夜の新宿があちこちの看板と広告に照らされるなか、道を歩けばたちまちキャッチの男に出くわす俗世界。バニラの広告宣伝車や、マックのハンバーガー、ネットカフェの個室、チキンラーメン、ポテトチップス……。

 新海の風景といえば、現実世界をさまざまなフィルター処理をして美化する役割があった。これを無効化するチープなリアリズムは、今作の主題の一つだった非人間的なものとしての気候と転倒した相関を有していたといえる。こうしたコマーシャリズムのスタンスが今後どうなるかわからない。個人的な関心でいうなら、これをさらに加速させてポップさの限界を突き詰めてほしいが、その反面今作における物語についての位置づけを考えなければならない。

 おそらく二つの概念によって得られる均衡は経済学的な均衡をいうに等しい。つまり、想像上のモデルに与えられた一点ということである。経済活動はつねにこの均衡に向けて自動的に調整されるが、永遠に到達することはできないし、統計的な限界からそれを確認することすらできない。均衡がありえないとき、極端なことをいえばシナリオそれ自体を一時的に括弧に入れたほうがいいのかもしれない。どうしても民俗学や神話の扱いが半ばパズル化し道具になっている感を否めないことを含めて。

 例えば、本来「モノ」の世界に対立するはずだった「天気」は陽菜の神通力によって神的な摂理を帯び始める。そうして神話的に意味づけられたために、天気が物質的な力を失う。すなわち、モノとしての無機物性を制限されてしまったということ――。または、誤配された拳銃。拳銃が妙に浮いていたが、それがシナリオに起因するとしたらこう理解できる。つまり、銃が超越的な武力として機能する限り、ただちに「晴れ女の祈りという超越的な能力と同等の価値をもってしまうことに注意する必要があるということだ。もしくは、垂直な空間設計をしたとき、鉄床雲の上が一面草原だったという想像力はどうだろうか。仮に『雲の向こう、約束の場所』のタワー頂上が伽藍堂であったのと同じ問題だとすれば*、彼岸の具体性についてジブリが大きなカウンターポイントとなりうる。とにかく今回のモノ的なリアリズムが半端になった一因が多少なりとも以上にあったと思う。

 雲についてもう一つ書いておく。というのも、異常気象に見舞われた2020年代の東京には雨が連日振り続けて、雨雲しか見えない状態である。そこに「晴れ女」が現れて奇跡を起こす。雲をこじ開けて差し込む光――それが示すのは、曇りと晴れの二元性にほかならない。雲は空を覆い尽くすだけでは、その可塑性や多様性を十分に発揮させることは難しい。雲のヴァリエーションをどのように展開するべきかという表現上の問題は、条件=地としての「晴れ」と密接に関わる。しかし、実際陽菜を供犠にして得たのは快晴だった。雲がまんべんなく広がり自由に変形する場としての中間状態が無くなった、ある意味で「セカイ系」の抱えた罠といえるかもしれない。その点で、『言の葉の庭』のエンディングに描かれたうろこ雲は再考すべきだろう**。

 

*あるいは『星を追う子ども』において神話としての地下世界がかなり俗であったことを挙げてもいい。

**ちなみに『言の葉の庭』は、今作を通してもっとも見返す必要があると思った。フェティシズムやモノの見せ方が作劇として作用している。特に割れたファンデーションの描写はその最たるもので、去勢された青春映画に収まりがちな新海作品になかった異様さを醸し出している。

 

参考リンク(というか下地は完全にここに由来するので本文のほとんどはその注解みたいなもの)

・『天気の子』から“人間性のゆくえ”を考える ポストヒューマン的世界観が意味するもの

https://realsound.jp/movie/2019/07/post-394988.html

石岡良治×福嶋亮大×宇野常寛「『天気の子』とポスト・ジブリアニメのゆくえ」https://live.nicovideo.jp/gate/lv320974507